写真日記

2025年03月25日

衆議院議員在職25周年 永年在職表彰をいただきました

※ 以下は、ながつま昭の謝辞です。

本日、衆議院議員在職二十五年を迎え、永年在職表彰をいだだきました。すべての皆さまに感謝申し上げます。
昭和35年6月14日、私は祖父、父とも警察官の家に生まれました。当時、父は国会の廊下に寝泊まりしながら、安保闘争の警備に当たっており、私が生まれた日も国会にいたそうです。翌日には東大生、樺美智子さんが警官隊と衝突して命を落としました。騒然とするなか、父は私に何日も会いに来られなかったそうです。
母は高田馬場の鮮魚店の娘で、ぜいたくを極度に嫌い「質素と謙虚」こそが最も大切だと教えてくれました。
「お父さんは警察官なのだから、昭が少しでも悪いことをするとお父さんは警察に居られなくなるの」と子どもの時から母から厳しく言われ続けていました。
もともと政治家になるつもりはなく、大学卒業後、NECを経て日経ビジネス誌の記者となりました。
「金利をゼロにしてミニバブルを作る。そうすれば不良債権はすぐに片付く。マスコミは騒ぐな」。バブル崩壊を取材するなかで、官僚はこう言い放ちました。がくぜんとしました。この衝撃が政治家になるきっかけです。この失政こそが、その後の失われた30年と続くのです。
さらに、取材をした衆議院議員の菅直人さんからの「ジバン、カンバン、カバンがないほうががいい政治家になる」という言葉も親が政治家ではない私の背中を押しました。
当選までは、山あり谷ありでした。
足元が一気に崩れ落ちた。民主党の公認を外され、こんな気持ちが襲ってきました。1996年、初の小選挙区制度の下、衆議院東京都第10区で民主党公認で挑戦したものの惨敗しました。その後、政界再編に伴い公認争いが起こり私の公認が外されたのです。目の前が真っ暗になりました。その後、長くつらい紆余曲折があり、苦渋の決断をして選挙区を変更し、2000年6月に初当選、以来、今日に至っています。
生かされているこの命。誰でも初めは、自分の持ち味を活かしたい、人の役に立ちたいと思うのではないでしょうか。しかし、今、多くの壁に阻まれ、そのやる気が失せてしまう。こんな社会は発展しません。
政治の力で壁をできるだけ取り払って、どんな環境にあっても一人一人の持ち味が活きる社会を作りたい。そうすれば日本はもっと良くなります。私が目指す社会は、すべての人に「居場所」と「出番」のある社会です。これからも、これまで同様、できる限りの力を尽くしてまいります。
落選中は収入がほぼゼロとなり、幼い息子3人を抱え、妻には大変つらい思いをさせてしまいました。また、無理難題をお願いしても応えてくれた秘書・事務所スタッフにも支えられました。議員や政党スタッフにも大いに助けられました。
最後に何よりも、応援いただいた支援者の皆さまに心より感謝申し上げます。祈るような気持ちで応援をしていただいた方、少ない年金の中から献金をしていただいた方、雪の中でも熱心に街頭演説を聞いていただいた方、しがらみを振り切って応援をいただいた方、党が逆風のなか、怒鳴られてもビラ配りを続けてくれた方。
数えきれない涙が出るほどありがたいご支援は決して忘れません。いただいた思いを肝に銘じてこれからも精進してまいります。
ありがとうございました。